現代 三線が沖縄を代表する楽器となっているのは、十七世紀の音楽家 湛水親方の努力の賜物と言っても良い。 首里の名家に生まれ、時の大政治家・羽地朝秀の従弟でもあった彼は、才を見込まれて若いうちから薩摩に渡り見聞を広めていた。
当時琉球では大和芸能が奨励され、琉球音楽は低俗なものと見なされていたが、彼は国が誇れる独自の芸能の創作こそ肝要であると思い至り三線音楽の探求に一身を投じた。
時には作曲に没頭するため仲島という遊廓にとじ籠ったり、音楽のよき理解者であった遊女を後妻に迎えたことで名門士族にあるまじき放蕩者と非難もされたが、彼は世評に動じず信念をもってついに己の音楽を大成させたのであった。
一時は首里を追放もされ毀誉褒貶の激しい生涯を送ったが、格調高い古典三線音楽 湛水流を完成させた彼は いつしか国王からも尊敬される存在となり、茶道頭として再び首里に迎えられてからは 剃髪して自ら湛水の号を名乗った。
「露の身は持ちやり遊びゆすや笑て 浮世ふり捨てていきやしがなや」
…人は皆 露のように
儚い身でありながら
私のような遊芸に打ち込む者を笑う
できることならこの浮世をふり捨てて
自由の世界に行ってみたいものだ
画 池宮城 友子
文章・編集 齋藤 嘉苗(JCC美術部所属)
監修 井上 秀雄(沖縄県立芸術大学名誉教授)
企画 JCC美術部
(参考資料)
「琉球音楽(久米島) 始祖をたずねて」内間邦夫
「琉球・沖縄 歴史人物伝」新城俊昭
「琉歌大観」島袋盛敏