第二尚王統の初代・尚円(しょう えん)王は元々の名を金丸(かなまる)といい、両親は伊是名島の百姓でした。若い頃は島でも評判の働き者でしたが、ある干ばつの年に金丸の田んぼだけが干上がらなかった事から水泥棒の疑いをかけられ、島から追い出されてしまいます。あるいは、非常に好男子だった金丸が女性の人気を独り占めしてしまい、島の青年達から憎まれた為とも言われています。
金丸は島を出て転々とするうち、越来(ごえく)王子 尚泰久(しょう たいきゅう)の目に留まり役人として取り立てられました。有能だった金丸はやがて尚泰久の絶大な信頼を得るようになります。
当時の第一尚氏王朝は国王が相次いで亡くなっており、一四五三年に越来王子だった尚泰久が首里に呼び戻されて即位しました。これにより、金丸は国王の右腕として絶大な権力をふるい「御物城御鎖之側(王府の外交と那覇の監督官)」という重要な役職をも任されるほどになります。
尚泰久王が亡くなると、跡を継いだ尚徳王にも仕えましたが、尚徳が金丸ら要人の忠告を聞かない暴君だったため、職を辞して内間の領地に隠棲しました。
ほどなく尚徳王が病で亡くなると、家臣達はその非道な政治を反省し、次の王に金丸を推挙し首里城に迎えました。一四六九年、時に金丸は五十五歳。ついに琉球国王となった金丸は尚円王と名乗り、以後四百年以上続く第二尚王朝をひらいたのです。
『琉球王国 人物列伝』より抜粋